私のカウンセリングの効果
息子の復学を我が事のように喜んでくれるカウンセラー
久しぶりにカウンセリングの先生と話した。
息子の復学は果たせた今も
カウンセリングを3か月に1度程受けている。
4月から始まった今学期、
今の所、
息子が皆勤であることを伝えると
心から喜んでくれた。
「そんなに?」という程喜んでくれた。
何度も何度も
「それはうれしいなー、よかったなー」
と言って下さって、
毎日登校しているのが、当たり前の感覚になりつつある私に
「毎日登校できるのは当たり前じゃない。奇跡だ!」と思い出させてくれる。
カウンセリングとの出会い/強い抵抗感からの信頼感
息子の体調が悪くなって、
いよいよ学校に行けなくなってから、
このカウンセリングの先生に出会った。
初めのうちは、
「カウンセリング」に通うなんて・・・(はずかしい・・・)
と正直言って、強い抵抗を感じた。
息子も一緒に私とカウンセリングを受けた。
その後、数回程、息子ひとりでカウンセリングを受けた。
親の前では話せないこともこの先生には話せる。そんな間柄だ。
カウンセリングの先生は息子との会話の内容は決して私にすら話さない。
その点、私がこの先生を信頼している所以で、
我ら家族のことをよく知っているのに、
誰にもその事を言わない。
ただただ、それぞれに寄り添うだけ。
絶対に否定しない。
適宜、助言のようなものをしてくれるが、
決して押し付けたりしない。
例えば、
本当に本当に苦しくて死にたいと思っていた時期が私にはあるのだけど、その時のこと。
同じように不登校の子どもを持つ友達の涼子に
「死にたい」と話したことがある。
彼女なら、きっとこの気持ちを分かってくれるかずだと思ったからだ。
それを聞いて
彼女はこう言った。
今思えば、
彼女に悪気はなく、
何気ない一言だったに違いない。
しかしながら、
私はその言葉を聞いて更に苦しくなり、咄嗟に話題を変えた。
忘れていた。
彼女はカウンセラーではないのだ。
一方、カウンセリングで
後日談として「死にたかった」と話したところ、
カウンセリングの先生は
とひとことだけ。
誰かに話を聞いてほしいだけ
よく言われることだけど、
私は答えを求めちゃいなかった。
ただただ、この気持ちを誰かに分かってほしかった。
それだけだった。
その相手は家族でも友達でもない、
「誰か」がいい。
誰でもいいわけではないから、
なかなかむつかしい。
私の場合、
カウンセリングで定期的に気持ちを吐き出すことができたことの意味は大きい。
海外ではカウンセリングは普通のこと
アメリカ人の友達にカウンセリングに通っていると話したら、
「ふーん」
って感じだった。
「へー」ではなく、
「ふーん」だった。
逆に
日本ではカウンセリングはあまり普及していないと話すと驚いていた。
確かに
ネットフリックスでもアマプラでも海外ドラマを見ると普通に登場人物はカウンセリングに通っている。
アメリカではメンタルヘルスという概念が相当進んでいて、
なんと5月はメンタルヘルス強化月間らしい。
有名人やハリウッドスター達がSNSなどで
「カウンセリングに行ってきたよ」
と投稿している。
それを見ると、
カウンセリングってなんだかクールだ。
一方で
ここ日本はかなり遅れているし、文化的にいっても
カウンセリング自体が何か後ろめたい対象になっている。
そういう
私はというと、
家族以外、私がカウンセリングに通っていることを知っている人はいない。
内緒にしているつもりはないけど、
別に言わなくてもいいし。
言って得することはないし。
それでいいと思っている。
THE日本人。
状況を変えるのは簡単なことではないと思う。
思うけど、
このことは伝えたい。
カウンセリングだけが回復要因ではない、それはそうなんだけど、
やっぱり、その効果は大きいと振り返って思う。
ここ日本でも、カウンセリングが普及して、
多くの人が普通にカウンセリングを受けるような文化になったらいいなと心から思う。
カウンセリングに行くの恥ずかしい?
恥ずかしいと思うことこそ、恥ずかしいよ!
でも、恥ずかしいよね。
それも分かる。
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